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左から雷山塁、鎧ヶ岳(戸次道雪の居城)、烏帽子岳(大分県豊後大野市『道の駅おおの』から撮影)
左から雷山塁、鎧ヶ岳(戸次道雪の居城)、烏帽子岳(大分県豊後大野市『道の駅おおの』から撮影)

 

1902(明治35)年版 『立花宗茂』より
1902(明治35)年版 『立花宗茂』より

『大分には、真田幸村や伊達政宗のようにワクワクするような英雄がいない』という若者の声を聞くことがあります。ところが豊後大野に生まれた戸次(べっき、後の立花)道雪は、大友宗麟を支えた名将として、遠国の武田信玄をはじめ毛利や小早川など敵からも尊敬された武将で、養子の立花宗茂は豊臣秀吉に「九州第一」西国無双」日本一」と絶賛されました。一度は敵対した徳川家康からも「大津城を攻め落とした九州勢(立花軍)が関ヶ原に来ていたら戦いは危なかった」「(宗茂が撤退の際に住民のために瀬田橋を焼かなかったことは)心優しき」と認められ、大友家の宿敵だった島津とも友好な関係を結ぶなど、ドラマや漫画の主人公のように爽やかな人生を送ります。浪人した宗茂は徳川家の厚い信頼を受け、関ヶ原合戦で改易された大名で唯一本領復帰を果たし、困窮していた大友家を経済的に援助します。宗茂の実父で豊後国東(現在の豊後高田市)の吉弘家に生まれ、岩屋籠城戦で有名な高橋紹運(じょううん)と共に『戦国最強の親子』という言葉がふさわしいと思います。

ところが、この3人(道雪・紹運・宗茂)の親子は、これまで一度もテレビや映画の主人公になったことはないことも関係しているのか、大分の若者のほとんどは、彼らが大分で生まれ育ち、合戦に強いだけでなく信義に厚いことが全国から高く評価されていたことを知りません。私が最初に3人を知ったのは、『名将言行録』ですが、要約版に抜粋された新書や文庫本に信長・秀吉・家康をはじめ、真田や伊達などの有名武将にまじって、豊後出身の3人が大きく取り上げられていたことを誇らしく思いました。あるとき古書店で、豊後の帆足万里が執筆した『橘山遺事(きつざんいじ:柳河藩の依頼により、戸次(立花)道雪と高橋紹運の事績をまとめた5巻の歴史書を当時の公用である漢文に訳したもの)を偶然に入手したことをきっかけに、その原本である『梅岳公遺事』を郷土史家の芦刈政治先生(元大分県立三重中学校長)に解読していただきながら、道雪が生まれた豊後大野市大野町の元町長 佐伯和光さんらと、道雪・紹運・宗茂の親子の顕彰とドラマ制作の資料となる古文書読解作業を進めています。

Contens:

 

大河ドラマ準備会

 

戸次道雪の生誕地

 

梅岳公遺事の解読

 

橘山遺事 原

 

芦刈政治先生のコラム

◆参考資料◆

 

名将言行録 原文

岡谷繁実・1895(明治28)年  

 

少年史伝『立花宗茂』白河鯉洋・1902(明治35)年