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1.はじめに ~キーゼヴェッター大佐と金池小学校の皆様のガイドとして~

2.金池小学校の風景今昔

   (1)大分ドイツ俘虜絵葉書

   (2)大手通りからの学校全景

   (3)大正時代の校舎配置

   (4)第1校舎

   (5)第2校舎

   (6)第3校舎

   (7)第4校舎と大分第2俘虜収容所

   (8)小学校から見た大分市街の遠景

   (9)「第二のシーボルト」の大分収容所スケッチ

   (10)ユリウス-パウルさんの葬儀

   (11)補遺1.大分第1俘虜収容所

   (12)補遺2.歩兵第72連隊

   (13)補遺3.百年前の高崎山

   (14)補遺4.小学校講堂と衛生館

   (15)補遺5.現在の小学校の風景

3.終わりに ~「金池魂」について~

4.謝辞

5.参考文献・サイト

1.はじめに キーゼヴェッター大佐と母校の皆様のガイドとして

 このサイトは、ドイツ駐日大使館武官のカーステン・キーゼヴェッター大佐が、御親族の墓参のために昨年大分に来られたことをきっかけに作成しました。大佐の曽祖父の弟のユリウス・キーゼヴェッターさんは中国の青島近郊でホテルを経営していたそうですが、1914年(大正3年)に第一次世界大戦によって現地召集され、日本軍との交戦で捕虜となり、大分に移送された後、1917年(大正7年)に病死されました。ユリウスさんが移送されたのは大分尋常小学校(現在の大分市立金池小学校)の施設の一部を転用して、下士官向けに作られた「大分第2俘虜収容所」でした。大分に移送された俘虜は当初141人でしたが、次第に増えて最終的には215人が上士官向けの第1収容所(日本赤十字大分支部)と、下士官向けの第2収容所(大分尋常小学校)に分けられて、1914年(大正3年)12月から1918(大正7年)8月まで大分に滞在されていました(Hans-Joachim Schmidtさんの調査より)。

 

 大佐は墓参のサポートに尽力された本名龍児先生(海上自衛隊幹部学校)と共に金池小学校も訪れて喜ばれたそうですが、本名先生から収容所があった校舎の具体的な場所がわからず今後の課題とされたと伺って、当時の史料をもとに調べてみました。

 

 実は金池小学校は母校でもあります。自分が通った時期(1975年~81年)は、1902年(明治35年)に作られた木造校舎は既に取り壊されていましたが、第1校舎の一部が校外の北に移築されて倉庫になった姿や、戦前に建てられた講堂(現在の体育館の位置)は「金池魂」の額と共に覚えています。コロナ禍で調査は延び延びとなっていましたが、今年8月に母校を40年ぶりに訪問して、母校に保管されていた平面図などの史料を拝見させて頂きました。また、現在の職場である医療機関で行っている回想法ケアのために集めた大分の郷土絵葉書、大分県立図書館や大分市歴史資料館、ネット公開されている海外の資料をもとに校舎や大分の風景の変遷をまとめました。

 

 このサイトが、今年10月に大分を再訪される大佐と、母校の皆様のガイドとして、また大分の歴史に興味がある方々に少しでもお役にたてば幸甚でございます。

 

(追伸)先日母校を訪れた際には、ちょうどグラウンドに新しい校舎を建設中で、来年冬には現在の校舎や管理棟も全て取り壊されて、そこが新しいグラウンドになるそうです。小学生の頃から慣れ親しんだ多くの大樹も正門そばの槙の木を残して伐採されるそうで、真に残念ではありますが、百年前からの校舎の配置を再確認する意義があったと皆様の御縁に感謝しております。

 

     令和3年(2021年)10月12日 森本卓哉(郷土史愛好家・医師)拝

 

2.金池小学校の風景今昔

(1)大分ドイツ俘虜絵葉書

 はじめに、大分第二俘虜収容所があった小学校の風景を当時の絵葉書から御紹介します。1枚目の写真は、現在の大手通り(遊歩公園のある通り)側から見た校舎全景の図です。大正5年(1916年)5月4日の消印があり、ドイツ俘虜から上海に宛てて書かれた葉書で、イースター祭を祝う文章があります。当時は大分尋常小学校という名前で、明治35年に竣工した第1校舎から第4校舎までの設備は九州一の規模を誇っていました。絵葉書の右端に映っている2階建ての校舎が収容所として利用され、2枚目の俘虜絵葉書の写真のように、有刺鉄線のある塀で周囲を囲まれていました。

(2)大手通りから見た校舎全景の変遷

 ここで、現在は遊歩公園がある大手通りから見た校舎全景の変遷をまとめます。写真左が北側で、当時は今の北門が正門であり、第1・3・4校舎が2階建てで、第2校舎は平屋の木造校舎でした。大分第2俘虜収容所とされた第4校舎は、ドイツ俘虜が習志野収容所に移動して退去した翌年に解体され、第3校舎の左右に接続されて統合されました。

※この項から、私が所持している戦前絵葉書や古写真以外の写真については、ドイツ日本研究所板東コレクションと国立国会図書館が所蔵、ネット公開されている資料より掲載させて頂きました。関係各位に厚く御礼申し上げます。なお、私が所蔵する資料についてもネットエチケットのもと、クレジットを付けて頂ければ画像転載をして頂いて構いません。

(3)大正時代の校舎配置

  俘虜収容所があった大正時代の校舎配置を示した図は、残念ながら今も見つけておりませんが、金池小学校と大分県立図書館が所蔵している創立50周年記念誌に昭和13年(1938年)時の図がありました。このとき竣工した講堂と、現在の体育館の位置がほぼ同じであることを手掛かりに、昭和23年(1948年)からの航空写真、さらに創立80周年、90周年、100周年記念誌に収録された写真をもとにして、明治~大正時代にかけて第4校舎までの具体的な配置を推定しました。

 

 以上から、Google Earth を用いて、明治35年(1902年)に撮影された写真と現在との比較したのが以下の図です。今は高いビルに取り囲まれていることから、昔の田んぼの中にあった学校をイメージすることは難しいですが、この図が理解の助けになれば幸いです。

 これから各校舎の詳細について写真で御紹介します。

(4)第1校舎

 現在の小学校の正門(管理棟前)と異なり、昔の正門は第1校舎の正面玄関へ入る北側にありました。現在の北門に相当します。第1校舎側に卒業記念樹として植えられた槙の木は、昭和32(1957)年に正門が現在の位置に移動したことに伴って、今の正門脇に移し替えられ、大樹となっています。

(5)第2校舎

(6)第3校舎

(7)第4校舎とドイツ俘虜収容所

 第4校舎の東側にはドイツ俘虜が整備したテニスコートや鉄棒も備えられていました。大正4年10月の小学校運動会ではここで体操演技を小学校生徒に披露している様子も映されています。今から考えると驚きでもありますが、有刺鉄線のある塀で囲まれた収容所敷地内に小学生や父兄が入って一緒に運動会を楽しむ日独交流の一端が伺えます。

 第4校舎北側の庭園から第3校舎はとても間近で、2人の小学生と思われるシルエットも映っています。

(8)小学校から見た大分市街の風景

 ここで、ドイツ俘虜が第4校舎の2階から撮影した大分市の風景を紹介します。大正時代は学校周囲に田園が広がり、市街の銀行や電力会社の建物が見えました。

 大正7年(1918年)7月の水害時にも同じ角度から撮影された写真があります。

 参考までにGoogle Earthを使用して、今のビルが立ち並ぶ風景と比較しました。

(9)「第二のシーボルト」の大分収容所スケッチ

 大分第二俘虜収容所には、後に「第二のシーボルト」と称され、有名な日本研究者となるフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf, 1888-1949) も収容されていて、大分での収容所体験を Das Oita-Gelb-Buch ~Ein Buch für Stacheldrantkranke~(大分黄本 ~有刺鉄線患者のための本~)という絵本を作成しました。有刺鉄線のある塀に囲まれた第4校舎の中で、夏の暑さに耐えながらテニスやお酒を楽しんだり、塀の向こう側で田植えをする女性の様子、母国からの郵便配達を心待ちにしている様子などがユーモアを交えて生き生きと描かれています。

※この項で、Das Oita-Gelb-Buchの画像はドイツで第一次世界大戦の歴史についてホームぺージにまとめられているHans-Joachim Schmidt さんが公開されている一部を紹介させて頂きました。またルンプの大分俘虜収容所時代の写真は、ベルリン日独センターが1989年に出版した「Du verstehst unsere Herzen gut -Fritz Rumpf im Spannungsfeld der deutsch-japanishen Kulturbeziehungen 」から引用させて頂きました。関係各位に厚く御礼申し上げます。

(10)ユリウス-パウルさんの葬儀

 大分第二俘虜収容所には、カーステン・キーゼヴェッター大佐の曽祖父の弟のユリウス-パウル・キーゼヴェッター(Julius- Paul Kiesewetter)さんも収容されていました。ユリウスーパウルさんは中国の青島近郊でホテルを経営してたそうですが、1914年(大正3年)に第一次世界大戦によって現地召集され、日本軍との交戦で捕虜となり、大分に移送されました。大佐によれば、子供の頃からやる気に満ちて明るい性格の方だったそうです。1917年(大正7年)に病気でお亡くなりになり、現在の櫻ヶ丘聖地に葬られました。享年37歳でした。ドイツ日本研究所が保管しているアルバムには、1917年(大正7年)5月10日に行われた葬儀の写真が収められています。収容所があった小学校から大分メソジスト教会で葬儀が執り行われ、竹町通りを通って、現在の櫻ヶ丘聖地に埋葬される様子が映されています。

 写真(左)がユリウス-パウル・キーゼヴェッター(Julius- Paul Kiesewetter)さん

 海上自衛隊幹部学校の本名龍児先生らの調査によって、左の方であることが判明しました。

上左の写真は、所蔵の戦前絵葉書から「左のぎおんやの看板」「右の郵便ポスト」「左遠景の旧大分銀行のシルエット」が一致しており、竹町通りと判明しました。教会も明治からの歴史がある大分メソジスト教会であることが文献(「教会の百年」日本基督教団大分教会、1988年)から判明しました。

 

ユリウス・パウルさんのお墓は収容所で亡くなったクラインさんのお墓と共に大分市志手の櫻が丘聖地にあり、今も地元の方々の手厚い管理のもと、静かに眠っています。

 なお、ドイツ日本研究所が所蔵している葬儀の写真に映っている倉庫は、長く大正期の姿をとどめていましたが、最近新しく立て替えられました。左の写真は久野緑朗様から提供して頂いたものです。

 

 ここで俘虜収容所が設置された金池小学校、大分メソジスト教会(当時)、竹町通り、旧歩兵第72連隊、櫻ヶ丘などの位置について、(1)現在のGoogle Map 、(2)昭和23年航空地図(大分県立図書館所蔵)、(3)昭和8年(1933年)の大分市地図(筆者所蔵)、(4)昭和12年(1937年)の大分市鳥瞰図(西部と東部)を供覧して、周辺の地理を御紹介したいと思います。特に地図はダブルクリックすると強拡大しますので、市街の詳細を知る助けになれば幸いです。

(11)補記 大分第1俘虜収容所

  大分第1俘虜収容所は、上士官向けのドイツ俘虜収容所として、現在の大分市高砂町にあった日本赤十字社大分支部に設置されました。現在は建物はありませんが、『日本赤十字社大分県支部発祥の地』の記念碑と、大正11年(1922年)に植えられた松の木が10メートル以上の高さに成長しており、大切に保存されています。また、日赤大分支部のすぐ近くに大分県立病院がありました。

(12)補記 歩兵第72連隊

 当時の大分俘虜収容所を警護していたのは、大分に本拠を置く陸軍歩兵第72連隊でした。現在の大分市駄原にあり、その北側にあった衛戍(えいじゅ)病院の医官が俘虜の健康診断や管理を担当していたと思われます。

 

歩兵第72連隊の正門は、現在の大分大学教育学部附属特別支援学校の正門になっています。ここから南遠景に、霊山や本宮山が見えます。また、下の写真のように連隊兵舎全景を西の山の手から撮影した絵葉書もあり、その視点場からは遠景に大分市街~上野丘が一望できます。

 また、歩兵第72連隊での器械体操の鉄棒の場面を撮影した戦前絵葉書があります。先にご紹介したように、第4校舎の東側のテニスコートの近くにあった鉄棒と同じような設備と写真が興味深いです。

(13)補記 大正時代の大分市・高崎山

 ドイツ日本研究所が保管しているアルバムに、高崎山登山の写真が2枚あります。高崎山は戦後国立公園になったため、頂上は樹木の繁茂で展望が長く障害されていました。私が小学校の時も「努力遠足」という名称で高崎山登山がありましたが、木の枝の間から眼下の別府湾が少しのぞける程度でした。ここ数年は、大分市の森林セラピー道路の開発によって、大分市方面や田ノ浦方面の眺望が回復しています。ただ現在でも別府市街地や別府港は樹木の繁茂、支障木によって展望が遮られているので、そこを整備すると戦前絵葉書の定番だった、「別府全景」を望むことができ、夜景も相当に綺麗だと思います。

(14)補記 金池小学校の講堂と衛生館

(15)補記 現在の金池小学校

 今年8月に母校を訪問させて頂いた時に、撮影した写真です。卒業以来、40年振りに校内に入り、少年時代を懐かしく思いました。

3.おわりに ~「金池魂」について~

 今から40年前に、私が通っていた金池小学校の給食センターの前に、大正時代に田園の中にあった学校の写真と、ドイツ人が運動会で重量挙げをしている写真の大きなパネルが飾ってあったことを覚えています。当時は、昔の学校の写真を見ても方角や門の位置などが全くわかりませんでしたが、今では俘虜収容所のあった校舎の写真の方角や位置、周辺の建物がわかるようになりました。医学の格言に「知らないものは見えない」という言葉がありますが、その通りだと実感した次第です。

このサイトが、これから小学校を訪れるキーゼヴェッター大佐や今の小学生の皆様に少しでも役立てば幸いでございます。

 

 最後に、自分の小学生時代に講堂に飾っていた「金池魂(かないけだましい)」について、金池幼稚園の園長先生時代から小学校まで薫陶を受けた佐藤喜徳元校長先生の言葉を紹介します。私も改めて拝読して背筋が伸びる思いがしました。今の小学生の皆様にも受け継がれている言葉ですが、ご参考になれば幸甚です。

4.謝辞

 今回の調査とまとめを行うにあたって、8月に卒業以来初めて金池小学校の校舎の中に入らせて頂いて貴重な史料を拝見させて頂き、また校内を見学させて頂きました石川照代校長先生、ご案内を頂きました後藤孝司教頭先生に心から感謝を申し上げます。また、海上自衛隊幹部学校の本名龍児先生には、昨年キーゼヴェッター大佐をご紹介頂いて以来、多くのご教示と有意義なディスカッションを頂きました。

 

さらに以下の方々に大変お世話になりました。

 

別府大学文学部 安松みゆき先生、

大分大学工学部 佐藤誠治先生、

大分県福祉保健部高齢者福祉課 渡邊浩邦様、

 

Hans-Joachim Schmidt 様、

 

大分県立図書館郷土情報室 精舎様・皆様、

大分市歴史資料館の皆様、 

ドイツ日本研究所図書館の皆様、

 

久野緑朗様、

清國時雄様、

波山和敏様、  

 

そしてもちろん、カーステン・キーゼヴェッター大佐には今回母校の歴史を調べるきっかけを与えて下さり、大変感謝しております。今後の益々のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。

 

      令和3年10月13日 森本 卓哉 (郷土史愛好家・医師) 拝

5.参考文献・参考サイト

ベルリン日独センター「Du verstehst unsere Herzen gut -Fritz Rumpf im Spannungsfeld der deutsch-japanishen Kulturbeziehungen」1989年

 

 

ドイツ日本研究所 DIJ板東コレクション 大分俘虜収容所

DIJ Bandō-Sammlung (dijtokyo.org)

 

中国青島で捕虜となったドイツ人を研究しているSchmidtさんのサイト

Tsingtau - historisch-biographisches Projekt

 

安松みゆき「大分にあった俘虜収容所」別府大学文学部芸術文化学科 芸術学論叢 (18), 114-130, 2009

 

豊田寛三、森本卓哉ら「大分市の昭和」樹林舎 2016年

 

大久保利武 「大分縣案内」「大分縣方言類集」1902年

渡辺克己「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 大分」図書刊行会 1979年

大分放送「大分百科事典」1980年

大分合同新聞社「秘蔵写真集 目で見る大分百年」1986年

大分放送「大分歴史事典」1990年

加藤貞弘「大分市・消えた町名~その由来と暮らし~」 大分合同新聞社 1997年

「目で見る大分市の100年」2000年 郷土出版社