大分の戦前絵葉書の中で、高崎山から見た別府の景観(別府市街と別府港、鶴見山など)は定番と言えるほど有名でした。しかしながら、同じ視点場からの現在の写真を全く見ないことが、郷土史マニアだった子供の頃から気になっていました。

 

 以下に、これまでに収集した高崎山から撮影した戦前絵葉書をご紹介します。大正~昭和の初めは高崎山をはじめ、府内城内や春日浦、威徳寺、仏崎など、大分の観光名所の到るところに松の木が生えていたことが戦前絵葉書から偲ばれます。

 

 なお、3枚目と4枚目の写真はそれぞれ上の写真の彩色絵葉書です。 

  高崎山は古来から、周囲が一望できる『四極山(しはつやま)』とも言われ、中世は大友氏が本格的に整備した山城がありました。1593年(文禄2年)に豊臣秀吉によって大友氏が改易された後は廃城となり、1596年(文禄5年)に起きた慶長豊後地震では大規模な山崩れが起きたと伝えられています。戦後の1953年(昭和28年)には野生猿を餌付けして観光地化した、高崎山自然動物園が開園しました。同年に国立公園(現在の阿蘇くじゅう国立公園)に指定されると共に、山の頂上を含めて樹木の伐採が制限されることとなり、以後は戦前絵葉書に映されたような景観が樹木の繁茂によって遮られることになりました。2015年(平成27年)から大分市が「高崎山セラピーロード」として、高崎山への登山道の整備を行い、その後も山頂の整備を行った結果、最近は眺望が随分改善されています。

 

 そこで、戦前に高崎山から撮影された別府の景観絵葉書の視点場(撮影地点)について、大分大学名誉教授の佐藤誠治先生にご相談したところ、実際に登ってみましょうということになり、久野一級建築士事務所の久野緑朗様のガイドのもと、釜山大学准教授のJaehoon Chung先生と共に2021年(令和3年)1月10日(日)に高崎山に登山して確認して参りました。

 

 雪が少量ながら積もっていたため、高崎山の南登山口の手前まで車で行き、サル除けの電気柵が整備された高崎山セラピーロードを登って、山頂(648メートル)を目指しました。写真は、南登山口(海抜415メートル)です。常設トイレも備えられていました。

 

 

 南登山口から見た山頂です。

 

 

 南登山口から少し登ると、南西に冠雪している「くじゅう連山」が見えました。

 

 

 登山道中には、かつて高崎山に築かれていた高崎城についての歴史や縄張りの詳細な解説板や、竪堀の標識などが随所に掲げてありました。歴史の貴重な勉強にもなります(^^)!

 

 

 頂上に近づくと、大分市方面を見渡す風景が見えてきます。ここでは木々の枝の合間からの風景ですが、、、。

 

 

 高崎山頂上目前の二の郭(くるわ)の北側は、雑木の伐採によって綺麗に整地されていて、眼下の田ノ浦ビーチから、大分港、赤いシーバースや日本製鉄の二つの溶鉱炉などがある臨海工業地帯、大分市街、さらに佐賀関の大煙突、遠景に四国の島々まで見えました。

 

 

 さらに国東半島の両子山から別府市の北側までの別府湾岸が見渡せます。

 

 

 そして高崎城時代の主郭(本丸)からさらに北西に少し下ったところで、待望の戦前絵葉書の視点場とほとんど同じと思われる地点が確認できました。由布山、鶴見山、扇山(大平山)と別府市街の西半分が見え、ビーコンタワーも視認できました。しかしながら、写真右側の樹木によって、別府市街の東半分や別府港は見えませんでした。

 

 

 戦前と現在の写真を比べると、約一世紀の間に、別府市街が山側(西側)に大きく広がっている様子が実感できます。現在の写真右側の樹木を伐採すれば、戦前絵葉書の絶景が蘇ることになりますが、今も樹木の整備は少しずつ進んで大分市側の景観は改善しているので、別府市側の整備も今後進められるのかもしれません。そうすれば、夜景もどんなに素晴らしいだろうと期待が高まります!

 

 

 高崎山からの眺望を撮影した戦前絵葉書には別府市街でなく、その少し西側を撮影した『大友三百余年の城跡四極山(高崎山)より見たる鶴見由布の遠峯』というタイトルの写真もあります。この景観はほぼ完全に現在の写真を撮影することができました。鶴見山と由布山をはじめ、鳥越や隠山の集落、さらに現在の写真では左下に高速道路(大分自動車道)が見えます。

 

 

 以上をまとめますと、高崎山から眺めた景観は、惜しくも別府港や別府湾に近い市街が樹木によって遮られているものの、その他は近年の整備によってかなり改善していました。下の写真で、景観を遮っている樹木を伐採していただくと、戦前の『別府全景』の絶景を取り戻せます。ただ樹木の中でも写真右端のような松の木が数本残っていました。松の木は残して頂ければ有難いです。久野様が仰っていましたが、頂上で寒い気象条件でマツクイムシの被害を逃れたのかもしれません。

 

 

 なお、高崎山から見た別府の絵葉書として、頂上よりも低い視点から撮影された写真があります。下の萩原號が発行した絵葉書(大正時代の撮影)の視点場は今回見つけることができませんでした。おそらく、今回確認できた視点場からさらに北西に下った山腹あたりからの撮影だったと思われます。今後の宿題となりました。

 

 

 この視点場は、戦後の昭和30年代に撮影された絵葉書もあります。右端に1957年(昭和32年)に竣工した別府タワーが見えます。この撮影地点は戦後しばらくの間は、絵葉書作成などに使用されていたと思われます。

 

 

 今回の高崎山登山を計画して頂きました佐藤誠治先生、ガイドをして頂いた久野緑朗様、ご一緒して頂きましたJaehoon Chung先生に心から御礼申し上げます。お陰様で大変楽しかったですし、皆様のおかげで、ずっと知りたかった戦前絵葉書の高崎山の視点場の一つにようやく辿り着くことができました。高崎山セラピーロードを整備された大分市役所の皆様にも衷心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

(写真右より、Jaehoon Chung先生、佐藤誠治先生、久野緑朗様、筆者)

 

 

 (追伸)もう一つの宿題として、別府側から高崎山を撮影した戦前絵葉書の中に、山腹が一部崩落したような写真があり、気になっております。高崎山は大正年間に大規模な山火事があったそうで、下の写真で木が生えていないのはその影響もあるかもしれませんが、一部崩落したような部分は地震の影響だったのでしょうか。地震であれば慶長豊後地震か、その後の地震の影響なのかどうかも不明ですが、これも今後の課題としたいと思います。

   文責 森本卓哉(医師、郷土史愛好家) 2021年1月11日(月祝)