著者所蔵の『大分県案内』(明治35年10月発行)より。「大分尋常高等小学校」の説明文がある。現在の大手通り(遊歩公園)側から東方向の学校全景を撮影したもので、写真左(北)から正門(北門)、第一校舎~第四校舎で構成されていた。このときは第一、第三、第四校舎は二階建てで、第二校舎のみが平屋であり戦後は「中校舎」として最後まで親しまれた。

 

著者所蔵のドイツ俘虜絵葉書。大正5年4月10日の大分郵便局消印がある。上の写真とほぼ同じ視点場から撮影され、建物は変っていないが木々が大きく育っている。左端の第4校舎の✖印は、俘虜収容所であることを示したと思われる。「DIE BERUHMTE LANDSCHAFT ZU OITA(大分名勝)」とドイツ語説明文があり、「大分碩田号」の制作による絵葉書と思われる。

 

著者所蔵のドイツ俘虜絵葉書。「大分第二俘虜収容所」の説明文と、住所面には大分郵便局で押された大正5年11月21日のスタンプがある。ドイツ俘虜のうち、士官クラスは大分赤十字社、下士官以下は大分尋常小学校の南にある第四校舎が収容所として使用された。周囲は有刺鉄線のある塀に囲まれている。※この写真から撮影当時は北側の第三校舎が明治期の二階建てから平屋になっていたことがわかる。

 

著者所蔵のドイツ俘虜絵葉書。「大分第二俘虜収容所」の説明文と、住所面には大分郵便局で押された大正5年11月21日のスタンプがある。大分尋常小学校(現 大分市立金池小学校)の南にある第四校舎が収容所として使用された。周囲は有刺鉄線のある塀に囲まれている。※この写真から撮影当時は北側の第三校舎が明治期の二階建てから平屋になっていたことがわかる。